野方ホープ社長 小栗富美代(由美香ママ)

週刊女性「人間ドキュメント」全3回

第1回 ずっとバカだといわれ続けた半生から逃れて

幸せはを暖簾(のれん)をくぐった瞬間からスタートする。
「いらっしゃいませ!!」
「脂こってり、麺かためね」
「ハイ、こってりの麺かため、ちょうだいしました!!」
 道路から流れ込むごう音をかき消すように、威勢のいい声が店内に響いてく。
 東京の大動脈、環状七号線・通称"環七"沿いにある『野方ホープ』。いわずと知れた、ラーメン激戦区の中で頭角を現し、『横浜ラーメン博物館』などに出店、多くの話題をさらってきた老舗ラーメン店だ。
 L字型のカウンター11席。テーブルの上には小壺に入った自家製キャベツキムチ、自分でクラッシュする生ニンニク、特製唐辛子が常備され、客はラーメンを待つ間、小皿にキムチを取り出しちびちびとつまむ。やがて湯気の向こうから、豚骨醤油系特有のスープが鼻腔をくすぐると、期待は最高潮に――。
「脂こってり、麺かため、お待たせしました!!」
 絶妙のタイミングで熱々のラーメン登場。スープをひと口すすり、キラキラ光る脂を中太縮れ麺に絡ませながら口へ運ぶ。こってりしながらもスッキリとした味わいに納得しながら、あっという間に完食。この間、客・店員とも一連の動作に乱れはない。
『野方ホープ』は1988年に開店。以降23年、移り変わりの激しいラーメン業界で、リピーターが多いことが容易にうかがえる。現在は、野方を本店に東京都内の荻窪・原宿・目黒・吉祥寺に5店舗を展開。
 芸能人も訪れ、家族連れも目立つ木のぬくもりが温かい原宿店に、「おつかれさん」と、顔を出したのは、『野方ホープ』社長の小栗冨美代さんだ。短髪に鋭い眼光、男物の背広。袖口にoguri.fのイニシャルの入ったYシャツをパリッと着こなし、その姿は男性の風格を漂わせている。
 さっそく出されたラーメンの盛り方を確認しつつ箸をつける。と、顔色が一変。厨房の従業員を呼びつけると、
「なんだ!? このぐにゃぐにゃのモヤシは!! モヤシはシャキシャキの食感を楽しむもんだ!! えっ、お前、なめてないか? モヤシ1本だって丁寧にヒゲを取って準備しているんだ。お客様に失礼だぞ!!」
 注意をしている最中、小栗社長は相手の目を見据え、微動だにしなかった。
「"たまたまそうだった"では許されないんです。お客様にとってはかけがえのない大切な一杯なんです。わざわざ足を運んでくださって、お金を払ってこの一杯を食べに来てくださるんですから」  それにしても、ものすごく怖いんですけど……。
「こいつを育ててやらねばならない、成長してほしいって思っているからこそ、注意もするし怒鳴りもします。成長すれば仕事もできるようになる。仕事ができれば給料も上がり、家族も裕福になる。結果、ラーメンでみんなが幸せになれる。相手もそれをわかっている。だからお互いが本気でぶつかり合えるんです」
 常に本気――。ガチンコ一本勝負の取材になりそうだ。緊張する記者の心を見透かしたよう、目をクリクリさせ、
「とんだとこ見せちゃったね。ほんの小さなほころびがやがて全体をダメにしてしまうの。おいしいラーメンは基本の基本。いまは居心地のいい店づくりを心がけているんです」
 怒るところは怒る。褒めるところは素直に褒める。さっきのラーメン。一層ふにゃふにゃになったモヤシが汁の中で、所在なさげに浮かんでいるが、もう終わったこと。どんぶりに注がれる小栗社長の瞳はやさしく、スープと麺をすするたび、うなずきながら箸を進めた。

   ◆   ◆   ◆

 苦労の多い人生だった。かつて子どもを抱え離婚。スナック・居酒屋の経営、生命保険の外交員から、競馬、競輪、麻雀などの賭け事まで、生きるために何でもやった。そして、人生の新たな一歩を踏み出したのが、41歳のとき。ずぶの素人から始めたラーメン店。たくさんの客が黄色に黒字で染め抜かれた『野方ホープ』の暖簾をくぐり、環七激戦区で一時代を築き上げた。
 原動力となったのは、反骨精神と子どもの存在。
(それでもお母さんはラーメンを作り続ける。あなたに注いだ愛情と同じように――)
 限界を超えた悲しみに襲われながらも、懸命に立ち直ろうとする小栗社長、渾身の一杯。流した涙を希望に変え、天塩にかけて育てた味の秘密を、いま初めて語る。

 石川県能登半島。日本海に囲まれ豊かな自然と文化の街に育った。7人きょうだいの末っ子の小栗社長。名前をつけ、出生届けを出したのは、18歳年上の一番上の姉だった。
「亡くなった子を含めると10人きょうだい。私はどっちみちいらない子だったんだね」
 小栗社長は、少し寂しそうに当時を振り返る。
 それでも、学校へ上がるころは活発な女の子になった。
「お手玉よりメンコが得意。おままごとやるときは必ずお父さん役(苦笑)。男女(おとこおんな)って、いわれてましたね」
 幼少時代、決して恵まれた環境ではなかったが、それなりに楽しく充実していた。
 父親は、戦後の混乱期を自転車屋の走りとして仕事を得た。
「父は面倒見もよかったですが、誰にでもケンカを売り、怖いものなし。それに対し誰にでもやさしく仏のような母でした」
「子どもは親のために働くもの」
 という考えの父のもと、中学卒業後は兄の繊維工場の仕事を手伝った。ひとりで機械を10何台かけ持ちし、いつも目がまわる忙しさ。
「イヤイヤやるからうまくいかなくてね。兄貴に"お前みたいなバカいない、バカいない"っていわれてて。50代になっても当時のことが頭にインプットされてたね」
 夜間も働き、休みは月に1回。そんな中、18歳で優しかった母を亡くした。朝はひとりで、仕事に出る前に7~8人家族のご飯の支度。そんな家がイヤでたまらなかった。2度の家出を企て、3度目には結婚で家を飛び出そう、そう考えていた。思惑どおり3度目の家出は、立川の彼の家に身を寄せ、やがて22歳で結婚、新居を構えた。
 幼少期の反動だろうか? 興味は外へと向かい、編み物教室、生け花、珠算など、いろいろな習い事に精を出した。
「お教室に行ったけれど、話がしたくてペチャクチャしゃべってばかりで、何も身につかなかった(笑い)」
 その中で唯一、興味をもったのが料理だった。
「魚屋さんに行くと、昔はお客さんの目の前で切っているから覚えてきて、家で見よう見まねでやってみる。自分は刺身が食べられないにもかかわらずにね(笑い)」
 昼食。食堂に入り、カウンターに座る。
「チャーハンには何を入れて、どうやって作るとか見て覚えて。あとは料理番組をメモして、2回は失敗しても3回目はうまくいく。料理はそんなふうに覚えていったんです」
 やがて23歳で、長女を出産。由美香と名付けた。家事に育児。忙しくないといえば嘘になる。だが、弱音は吐けない。親類のひとりがいった「ふみちゃんは東京に逃げたんだから幸せになんかなれやしない」という言葉が頭から離れなかった。
「ずっとバカだっていわれ続け、まだバカにされている。くやしかったね。だけど"ふみちゃん、頑張りなさい"って姉が応援してくれてね。よし、見返してやろう、って。そこから頑張りだしたんです」
 もともと働くことは嫌いではなかった。好きな料理の腕をふるい店を出したいと切り出した。すると夫は、
「オレ、いまのままで十分、幸せだよ」
「お願い、私の願いをかなえさせてほしいの」
 頭を下げ続けた。生れた子を目の前に、夫はしぶしぶ承諾。
 石狩鍋、刺身の盛り合わせ、陶板焼きなど見よう見まねで覚えた料理でスナックを開店。材料は大きな市場で調達した。
「市場では、まだ24歳で若くて可愛かったからさ、いろいろと教えてくれたね(笑い)」
 楽しかった。それでもうすうす子どもや家庭に負担がかかっていることに気付きながらも、ますます仕事にのめり込んでいく。
「あるとき、子どもが預けていた先でひきつけを起こして。きっとすごいストレスになっていたんでしょうね。あっちこっちに子どもを預けて。結局、子どもが一番かわいそうでした」
 かつて故郷を捨てた。家族や親戚には後ろ指をさされ続けた。負けたくない、負けたくない、そんな一心から始めた店だったが、すぐに商売の才覚を現し、26歳で夫名義の家を購入。
 すべて順調だったが、客同士のケンカが原因で店を閉め、その後、雀荘を経て板橋で居酒屋を始めることに。飲食店のノウハウをつかんでいたので、再び繁盛店へ。このころから忙しすぎる自らの身体は、悲鳴を上げていた。
 当時、年配の女性をお手伝いに雇っていた。その人は、由美香ちゃんを自分の子のように溺愛した。
「川の字で寝ていると娘を連れていってしまう。その方はよかれと思っていたんでしょうが、子どもを取られたような気持ちになってしまい……」
 このままでいいはずはない。わかってはいても、逆にわが子から気持ちが離れていってしまう。そうこうしているうちに2年後、2店舗目がオープン。働きすぎだった。15年間でほとんど変わらなかった体重が、あっという間に5キロ、6キロとやせていった。
 由美香ちゃんがママの誕生日に描いた絵。"般若(はんにゃ)"のような顔だった。
「なんでこんなに怖い顔に描くんだろうって、思いながら絵を手にしていたんです。そうしたら、"ママにもうちょっと喜んでほしかった"っていわれてね。怖い顔がいつものママの顔だったのでしょう……。自分では気付かなかったけれど、きっといつも本当に怖い顔をしていたんですね」
 すでにうつ状態で病院に行ったが、相手にされない。限界を超え、仕事を辞めたい、と夫に切り出した。
「もう家庭に入りたいんだけれど……」
「いまさら何をいってるんだ!? 店はどうするんだ!!」
 大切な働き手を失うことになる。夫は妻の申し出を許さない。心身ともにボロボロになり、やすらぎの場所を探していた妻に、手を差し伸べることはなかった。こうした夫の態度に離婚を決意。だが、子育てができる状態ではないと、子どもは夫が引き取った。
 妻として、母として、後悔はなかったのだろうか? 子どもと別れることになり、母として身を切られる思いだったと語る小栗社長。
「商売は頑張れば頑張っただけ、いい結果が出たから……。途中で自分を止められなかった……」
 子どもを手放した34歳の自分を振り返り、ポツリとつぶやいた。




取材・文/藤本美郷
取材/関めぐみ

このテキストは、2009年6月23日号 週刊女性「人間ドキュメント」を加筆・修正したものです。